てぃーだブログ › 現代版組踊 燃ゆる首里城 朝薫伝 ~赫き龍!舞うが如く~

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2010年03月08日

配役

■玉城朝薫 嘉数大介(高2)


■平敷屋朝敏 垣花大河(高2)


■蔡温 神里知弥(中3)


■尚敬王 内間安朗(高2)


■赤犬子 大城遥(高3)
  


Posted by miyu★kaki at 00:07Comments(0)役者紹介

2010年02月14日

赤犬子(あかいんこ) 

三線音楽の祖と言われる伝説の吟遊詩人

沖縄の古謡集「おもろさうし」や古い琉歌にその名が登場する、三線音楽の祖と言われる生没不詳の伝説的人物。
伝承によれば、16世紀の初め沖縄本島読谷村楚辺に生まれています。
赤犬子には、飛びぬけた音楽の才能があり、尚真王が近隣諸国と親交や交易を盛んに行っていた頃に、いつも肩に三線を携え各地を放浪。
唄の伴奏に初めて三線を使い、人々に広めたといわれ、三線弾きの役職で王府で活躍していたとされています。

あるとき「松」という少年と出会って感心した気持ちをオモロに作りました。
これが玉城朝薫の組踊名作『執心鐘入』に登場する中城若松とも言われています。

晩年に生まれ故郷の楚辺に辿り着き聖なる光に包まれて昇天したそうです。
その場所には現在、赤犬子宮となり石碑には琉歌が刻まれています。

「唄と三線ぬ むかしはじまいや 犬子ねあがりぬ かみぬ美作」

この琉歌の本当の訳は分かっておらず、「いん子ねあがり」の部分で各方面の意見が分かれているようです。
「いん子音東」と捉えるか、「いん子音揚がり」と捉えるかという説がありそれぞれ意味も異なってきます。

読谷村では、毎年旧暦の9月20日には「赤犬子祭」が開催され、奉納演奏が催されます。
また、3月4日の「さんしんの日」には、古典音楽に携わる人々の演奏も執り行われます。
ここにお参りすると三線の腕が上がるという言い伝えもあり、参詣する人が絶えません。




  


Posted by miyu★kaki at 09:00Comments(1)登場人物紹介

2010年02月13日

平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)

和文学者で、組踊「手水の縁」などの作者 薄幸の才人

0歳 1700年 首里金城に生まれる(尚敬王と同じ年)

第二尚氏の一代目・尚円王の子=尚真王の子孫
祖父は国頭親方と呼ばれ、漢学者で湛水流の三線の大家

幼いころから自我の強い性格ではあったが、学問では神童と呼ばれた。

18歳 1718年 八代将軍吉宗の慶賀使、越来王子朝慶に随行して薩摩の太守公と共に上京

江戸滞在中、深川の本誓寺(浄土宗)で仏教を学び、かたわら源氏物語や伊勢物語、和歌等を学んだ

21歳 美里地頭の娘まなび(当時19歳)と結婚

尚敬王妃の思亀樽金が朝敏を慕い金城の家をひそかに訪ねて来るようになりました。
朝敏は長身の美男子で人情家でもあり、多くの人に慕われたようです。
そのことを尚敬王や三司官・察温に知られ、首里金城村の家屋敷は没収。職も失ったのです。

思わぬん濡れ衣(ぬれぎぬ)で失脚した失意の中、短篇小説「若草物語」「苔の下」を執筆。

27歳 1727年 勝連平敷屋(現在のうるま市)に転居

経済的に貧しく、田舎落ちしたことで失意のなか1年間を過ごしました。
随筆「貧家記」には、この頃の貧しさだけではなく、農民に温かい視線を持つなど、人間的な成長もみられるそうです。

28歳 1728年 役人として首里に戻る(王妃との関係が無実と判明したためか?)

短編小説「万歳」執筆
和文学愛好の同志が集って朝敏を師として塾を開く

その頃の琉球は、薩摩が中国貿易に介入。
琉球全土の検地が行なわれ、その支配と収奪が強まっていました。
その結果、貧しい農民はさらに貧しくなり、富農の下男下女になる人や子女を遊女に売る人も珍しくはなかったのです。
士族が増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族も増えました。
金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代でした。
朝敏の作品は、このような社会状況を反映していました。

31歳 平敷屋・友寄事件

三司官・察温一派を批判した文書が、琉球政務の監督者であった薩摩藩の役人あてにたびたび投書される事件が起こります。
蔡温による取り調べや捜査が行われ、朝敏が逮捕されました。

34歳 1734年 安謝港近くの刑場で重刑者に適用される串刺しによって処刑

朝敏以外にも、同志の友寄親雲上や弟の弥覇里之子を含め総勢15人が対象となりました。
朝敏の妻と子は百姓に身分をおとされ、長男次男はそれぞれ島流し。
その刑の厳しさは沖縄の罪刑史上、例のないものと言われています。

朝敏の書いた組踊『手水の縁』は、謀反人の作ということで長く上演を禁止されていました。
組踊で唯一の恋愛物であり、若い男女の激しい恋をテーマに独自の思想を展開させています。
王府の踊奉行として忠孝節義を下敷きにした玉城朝薫の作品と際だった対照を示している。

偶然にも玉城朝薫も平敷屋朝敏と同じ年に死去しています。


参考文献

平敷屋公民館 平敷屋朝敏   


Posted by miyu★kaki at 22:54Comments(0)登場人物紹介

2010年02月13日

蔡温(さいおん)

琉球を代表する政治家。若き国王・尚敬をサポートし、第二次「琉球王国の黄金時代」を形成しました。

0歳 1682年 中国から渡来し琉球に帰化した「久米三十六姓」の子孫として生まれる

蔡温の父・蔡鐸(さいたく)は歴史書の『中山世譜』も編集した知識人。
ところが若き日の蔡温は遊びまわってばかりで、物覚えが悪く、満足に読み書きもできない状態でした。

16歳 月見の夜。蔡温より身分の低い家柄の友人に読み書きができないことをバカにされ、悔しい思いをした蔡温は屋敷に帰り声をあげて泣き明かしました。

それからは人が変ったように勉強に打ち込み20歳までに、ほとんどの書物を読破。21歳には読書の師匠にまでなったのです。

21歳 1702年 黄冠にのぼる

27歳 1708年 福州琉球館(中国にあった琉球大使館)のスタッフに通訳官として抜擢。福州で陽明学や風水地理を学ぶ

30歳 1711年 尚敬の専属の教師に抜擢

31歳 1713年 尚敬が即位 と同時に国師の地位に就く。尚敬に信頼され、考えを国政に生かせるようになる

32歳 1713年  毛文哲らとともに首里城や崇元寺、玉陵など琉球王府の基盤となる場所の風水を調査

風水による国づくりの基礎となる調査結果を残しました。
特に、首里城の立地は 風水的に優れており、遷都してはならないという考えを明確に示しました。

35歳 1716年 進貢副使として中国に約1年9か月滞在

36歳 1717年 那覇港の整備(このとき玉城朝薫が浚渫脇奉行を務めている)

38歳 1719年 紫冠にのぼる(現在の高級官僚に出世)

冊封使とのトラブル「評価事件」を任され、見事に解決

43歳 1724年 「中山世譜」を増補改訂

44歳 1726年 尚敬王以下、国相・王子・按司などと山原を巡見

47歳 1728年 三司官となり国師を兼務

元文検地を実施するとともに、農業技術開発、治水工事、杣山(そまやま)育成、商工業の助成など数々の産業政策を打ち出し、国の発展に特に蔡温指導下の農林行政では、国策 として風水を用いて農林事業を行いました。

また、羽地川の改修をはじめとする治水 ・利水事業や那覇港をはじめとする各地の港湾の整備、道路・橋梁改修などの土木事 業も風水に基づいて行われました。
さらに、風水上重要な場所を「間切り抱護林」や「村抱護林」、「御風水所」とし、 伐採を禁止、これを保護することによって地域の自然環境を保全しました。

71歳 1752年 尚敬王の死後、三司官を辞任

80歳 1761年 逝去

様々な国家プロジェクトに携わる蔡温の行動倫理となったのは風水思想でした。
若い尚敬王を補佐しつつ25年間、琉球の国政に関わり、第二次「琉球王国の黄金時代を形成」したとされます。
地球規模での森林環境の悪化が進む現代。蔡温の思想が見直されるべきかもしれません。


参考文献

目からウロコの琉球・沖縄史 
wonder沖縄 琉球風水都市計画   


Posted by miyu★kaki at 15:45Comments(0)登場人物紹介

2010年02月12日

尚敬王(しょうけいおう)

0歳 1700年 第12代国王尚益王の子として誕生。

13歳 王に即位。琉球第2尚氏王朝第13代国王として1713年 - 1752年在位。

尊敬する師であり、当時の有能な政治家でもあった「蔡温(さいおん)」を三司官に登用。
蔡温が見事な手腕を発揮し、農業・産業・山林の整備を行う。また町に市を増やすなどして、産業も活性化させた。

18歳 1718年 玉城朝薫を「踊奉行」に任命し、冊封使歓迎の演目を一任する。

19歳 1719年 冊封使を迎える歓迎の宴で、踊奉行・玉城朝薫がはじめて「組踊」を披露。

尚敬王時代は沖縄文化の黄金時代といわれ、士族だけでなく 農村の娘たちのなかでも琉歌をつくるのが一般的であった。

26歳 1726年 百官引き連れての山北巡幸(山北=沖縄本島北部)。恩納間切・万座毛に立ち寄った際、 琉球王朝時代を代表する女流歌人・恩納ナビーの歓迎の琉歌を賞賛したという話は有名。

「なみぬくいんとまり かじぬくいんとまり すいてぃんがなし みうんちうがま」(波の音も風の音も、あらゆる自然のおとよ、静まっておくれ。おそれ多い国王様のお顔を拝もうではないか)

観光地として有名な万座毛(万人も座する草原=毛とは草原のこと)の名前の由来は、尚敬王が「万人を座するに足る」と賞賛したことからきているといわれる。

32歳 1732年 御教条という10数条の人の道を説いたものを公布。儒教などに基づいた忠孝を中心としたもの。

52歳 1752年 尚敬王死去。尚穆が王位を継ぐ。
  


Posted by miyu★kaki at 07:00Comments(0)登場人物紹介

2010年02月07日

琉球王国



その昔。1429~1879年の450年にわたって
沖縄は琉球王国(正式国名:琉球國)という独立国でした。


沖縄本島を中心に、最盛期には奄美諸島と沖縄諸島及び先島諸島(大東諸島と尖閣諸島は含まない)までを統治。小さな離島の集合の総人口17万に満たない小国でしたが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たしました。その交易範囲は、マラッカ王国など東南アジアまで広範囲にわたっています。
*王家の紋章:左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)

明、およびその領土を継承した清(現在の中国)の冊封を受けていましたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入りました。
ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸と日本の両方の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げたのです。

1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県が設置されることで、正式に日本国の一部となり、琉球王府による支配は終わりました。



【舜天王統】 舜天 - 舜馬順煕 - 義本

【英祖王統】 英祖 - 大成 - 英慈 - 玉城 - 西威

【三山時代】

      中山(察度王統):察度 - 武寧
      南山(大里王統):承察度 - 汪英紫 - 汪応祖 - 他魯毎
      北山(怕尼芝王統):怕尼芝 - 珉 - 攀安知

【第一尚氏王統】

尚思紹王 - 尚巴志王 - 尚忠王 - 尚思達王 - 尚金福王 - 尚泰久王 - 尚徳王

【第二尚氏王統】

尚円王 - 尚宣威王 - 尚真王 - 尚清王 - 尚元王 - 尚永王 - 尚寧王 - 尚豊王 - 尚賢王 - 尚質王 - 尚貞王 - 尚益王 - 尚敬王 - 尚穆王 - 尚温王 - 尚成王 - 尚灝王 - 尚育王 - 尚泰王   


Posted by miyu★kaki at 09:00Comments(0)時代背景

2010年02月06日

玉城 朝薫(たまぐすく ちょうくん)

「組踊(くみおどり)」の創始者 玉城朝薫(1684-1734)

*年齢は資料によって1歳前後するものがあります。以下の年齢は琉球文化アーカイブの表記を参考にしました。

●0歳 1684年、首里儀保の裕福な家に生まれる 
 朝薫は、尚真王の三男:尚韶威=今帰仁朝典の子孫
 生まれてすぐ母と離別、4歳で父と死別したため、祖父に育てられた

●9歳 亡くなった祖父のあとをつぎ玉城間切の地頭になる 
 *地頭:任された地域(間切)の土地の管理・租税の回収などを行う職

●13歳 首里城(今でいう県庁か?)勤めになる
 当時の首里城では、たとえ士族でも、踊りや楽器がひけないと役人になることはできなかった。
 朝薫は楽器や舞踊の稽古に励み、日本語の勉強にも力を入れた。

●17歳 朝薫の日本の芸能に感嘆した尚貞王から「文弥」の名を賜る

●21歳 越来王子(ごえくおうじ)のおともで薩摩(さつま)へ
 能(のう)の好きな薩摩藩主(さつまはんしゅ)・島津吉貴(しまづよしたか)を前に、大和芸能である『軒端の梅(のきばたのうめ)』の舞いを披露する
 一方、官吏(今でいう役人・国家公務員)としても有能で、納めている地域で貢租(納税)がとどこおりなく、しかも凶年に備えて米穀の貯蔵まで行ったとして王府から褒書も得ている

●22歳 黄冠となり、琉球の位階制度で中級官僚の仲間入り

●25歳 徳川家宣が6代目将軍になったお祝いのため美里王子(みさとおうじ)と共にに江戸へ上る 
 その後、王様の命令でたびたび日本(本土)へ行くようになる。
 生涯で薩摩上り5回、江戸上り2 回を経験。
 2度目の江戸上りの際は、座楽主取兼通事役という大役を果たす。
 人形芝居や狂言(きょうげん)を見るようになり、大和芸能への造詣を更に深めていった。

●32歳 中国からの使者・冊封使を迎えるための、那覇港改修工事の指導を任せらた

●34歳 冊封市使歓待に向けて踊奉行(おどりぶぎょう)を任命される
冊封の儀は貿易で栄える当時の琉球にとって、今でいうところのオリンピック規模のビッグイベント。
贅をつくした料理とお土産の美術工芸品を用意し、国の品格や知的水準の高さを示すためにも、洗練された芸能でもてなす、国をあげた中国との外交行事。失敗することが許されない重要な任務だった。まさに命がけ。

朝薫は、琉球に伝わる物語に「能」や「狂言」、「歌舞伎」などをの要素を融合させ、音楽と舞踊と芝居を組み合わせた「琉球型の音楽舞踊劇」を作り上げた。

護佐丸(ごさまる)と阿麻和利(あまわり)の話をもとに『二童敵討(にどうてきうち)』という台本を書き、つづいて『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』を書きあげた。しかし、新しい試みはすぐに受け入れられたわけではなかったが、人々から批判されながらも、朝薫は熱心に創作と稽古に打ち込んだ。

●35歳 冊封使歓待の宴で組踊「二童敵討」と「執心鐘入」を上演
観劇した冊封使たちは立ちあがって拍手を送るスタンディングオベーション状態に。 琉球の国王も批判的だった人々も感嘆の声をあげた。

その後も、『銘苅子(めかるし)』『孝行の巻(こうこうのまき)』『女物狂(おんなものぐるい)』という台本を書きあげた。組踊の最高傑作といわれるこれらの劇は、朝薫の五番(いつくみ)とよばれ今でも演じられている。

朝薫はその後も役人として様々な任務をこなす。

●44歳 紫冠(今でいうところの高級官僚レベル)に昇進

●50歳 死去

新ジャンルとして誕生した組踊は、約290年を経た今、古典芸能として受けつがれている。
昭和47年には国の重要無形文化財に指定された。


朝薫の五番(いつくみ)

●執心鐘入(しゅうしんかねいり)
●銘苅子(めかるしぃ)
●孝行之巻(こうこうのまき)
●女物狂(おんなものぐるい)
●二童敵討(にどうてきうち)


もっと知りたい!情報Library

●国立劇場おきなわ 玉城朝薫
●琉球文化アーカイブ 沖縄人物伝←小学生にオススメ
●wonder沖縄>組踊の世界>組踊の始祖・玉城朝薫
●美ら島物語 平田大一 歴史探訪シリーズ
●ウィキペディア
  


Posted by miyu★kaki at 18:36Comments(0)登場人物紹介

2010年02月05日

総合演出 平田大一



世界が認めた「マチおこしの舞台」の立役者

肩書きは「南島詩人」。今も色濃く沖縄の芸能や人情・自然が残る 竹富町小浜(こはま)島 出身。

言わずと知れた、元勝連町・きむたかホール館長。国立劇場おきなわでは、企画制作専門委員会委員や外部演出専門員もこなした、沖縄を代表する演出家です。

代表作は「奇跡の舞台」と呼ばれるほどの観客動員数を誇る「肝高の阿麻和利」(2000年~)。
県内外はもとより、ハワイ公演も実現。

その活動は海外からも注目が集まり、2009年12月「現代版組踊 肝高の阿麻和利とキムタカのマチづくり」がユネスコの未来遺産に登録されました。

平田さんに可能性を引き出されたのは子どもたちだけでなく、地域の大人たちにも波及し「マチおこし」という成果が上がったのです。

2005年に「那覇市芸術監督」に就任。「那覇市青少年舞台プログラム」の指導や舞台制作を任されています。

まさに、現代の「踊奉行(おどりぶぎょう)」。それが「平田大一」なのです。

現代版組踊 燃ゆる首里城 朝薫伝 ~赫き龍!舞うが如く~

那覇市青少年舞台プログラムの成果発表の舞台として2007年・2008年に制作・公演されたのが「現代版組踊 燃ゆる首里城」。
奇想天外でSFファンタジー的な物語や、魅力的なキャラクターたちが好評でした。

今年度は、首里城公演という目標を持ち、過去2回の公演を踏まえて、さらに「首里城」という歴史と風格に見合うものにするべく、新たに生まれ変わります。

平田大一が演出する「現代版組踊」の最新作。
「現代版組踊 燃ゆる首里城 朝薫伝 ~赫き龍!舞うが如く~」

乞うご期待!

平田大一をもっと知りたいひとのためのLibrary

TAO Factory
シマとの対話 フォトグラファーKUWAさんとコラボしたフォトエッセー
大一がゆく 2005年5月から2008年5月までのブログ
あの人検索スパイシー 平田大一 ウェブ上で公開されている人物情報を自動的に収集・整理し作成された「人物相関図」。
平田さんの場合、歴史上人物とつながっているのが一般人とは違うところ。
スカパー『肝高の阿麻和利』ドキュメンタリー 予告編動画 「心が震えるような、すごい感動をしたんです」というコメントに共感
南島詩人・大一がゆく!「肝高の阿麻和利ハワイ公演 最終話」 
  


Posted by miyu★kaki at 00:04Comments(0)平田大一

2010年02月03日

朝薫伝STORY

琉球の国劇「組踊」を創作した「玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん)」。劇聖とも云われたその朝薫が、時の琉球国王「尚敬王」より踊奉行に任命され、伝説の「ものいうおどり」組踊を生み出すまでの5年間の苦悩と歓喜を描く。

平敷屋朝、蔡温、尚敬王、赤犬子…首里城を舞台に、海を越え、時代を越え、更にジャンルをも越えた新たな「朝薫像」に那覇の子ども達が挑む。


  


Posted by miyu★kaki at 00:09Comments(0)あらすじ