てぃーだブログ › 現代版組踊 燃ゆる首里城 朝薫伝 ~赫き龍!舞うが如く~ › 登場人物紹介 › 玉城 朝薫(たまぐすく ちょうくん)

2010年02月06日

玉城 朝薫(たまぐすく ちょうくん)

「組踊(くみおどり)」の創始者 玉城朝薫(1684-1734)

*年齢は資料によって1歳前後するものがあります。以下の年齢は琉球文化アーカイブの表記を参考にしました。

●0歳 1684年、首里儀保の裕福な家に生まれる 
 朝薫は、尚真王の三男:尚韶威=今帰仁朝典の子孫
 生まれてすぐ母と離別、4歳で父と死別したため、祖父に育てられた

●9歳 亡くなった祖父のあとをつぎ玉城間切の地頭になる 
 *地頭:任された地域(間切)の土地の管理・租税の回収などを行う職

●13歳 首里城(今でいう県庁か?)勤めになる
 当時の首里城では、たとえ士族でも、踊りや楽器がひけないと役人になることはできなかった。
 朝薫は楽器や舞踊の稽古に励み、日本語の勉強にも力を入れた。

●17歳 朝薫の日本の芸能に感嘆した尚貞王から「文弥」の名を賜る

●21歳 越来王子(ごえくおうじ)のおともで薩摩(さつま)へ
 能(のう)の好きな薩摩藩主(さつまはんしゅ)・島津吉貴(しまづよしたか)を前に、大和芸能である『軒端の梅(のきばたのうめ)』の舞いを披露する
 一方、官吏(今でいう役人・国家公務員)としても有能で、納めている地域で貢租(納税)がとどこおりなく、しかも凶年に備えて米穀の貯蔵まで行ったとして王府から褒書も得ている

●22歳 黄冠となり、琉球の位階制度で中級官僚の仲間入り

●25歳 徳川家宣が6代目将軍になったお祝いのため美里王子(みさとおうじ)と共にに江戸へ上る 
 その後、王様の命令でたびたび日本(本土)へ行くようになる。
 生涯で薩摩上り5回、江戸上り2 回を経験。
 2度目の江戸上りの際は、座楽主取兼通事役という大役を果たす。
 人形芝居や狂言(きょうげん)を見るようになり、大和芸能への造詣を更に深めていった。

●32歳 中国からの使者・冊封使を迎えるための、那覇港改修工事の指導を任せらた

●34歳 冊封市使歓待に向けて踊奉行(おどりぶぎょう)を任命される
冊封の儀は貿易で栄える当時の琉球にとって、今でいうところのオリンピック規模のビッグイベント。
贅をつくした料理とお土産の美術工芸品を用意し、国の品格や知的水準の高さを示すためにも、洗練された芸能でもてなす、国をあげた中国との外交行事。失敗することが許されない重要な任務だった。まさに命がけ。

朝薫は、琉球に伝わる物語に「能」や「狂言」、「歌舞伎」などをの要素を融合させ、音楽と舞踊と芝居を組み合わせた「琉球型の音楽舞踊劇」を作り上げた。

護佐丸(ごさまる)と阿麻和利(あまわり)の話をもとに『二童敵討(にどうてきうち)』という台本を書き、つづいて『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』を書きあげた。しかし、新しい試みはすぐに受け入れられたわけではなかったが、人々から批判されながらも、朝薫は熱心に創作と稽古に打ち込んだ。

●35歳 冊封使歓待の宴で組踊「二童敵討」と「執心鐘入」を上演
観劇した冊封使たちは立ちあがって拍手を送るスタンディングオベーション状態に。 琉球の国王も批判的だった人々も感嘆の声をあげた。

その後も、『銘苅子(めかるし)』『孝行の巻(こうこうのまき)』『女物狂(おんなものぐるい)』という台本を書きあげた。組踊の最高傑作といわれるこれらの劇は、朝薫の五番(いつくみ)とよばれ今でも演じられている。

朝薫はその後も役人として様々な任務をこなす。

●44歳 紫冠(今でいうところの高級官僚レベル)に昇進

●50歳 死去

新ジャンルとして誕生した組踊は、約290年を経た今、古典芸能として受けつがれている。
昭和47年には国の重要無形文化財に指定された。


朝薫の五番(いつくみ)

●執心鐘入(しゅうしんかねいり)
●銘苅子(めかるしぃ)
●孝行之巻(こうこうのまき)
●女物狂(おんなものぐるい)
●二童敵討(にどうてきうち)


もっと知りたい!情報Library

●国立劇場おきなわ 玉城朝薫
●琉球文化アーカイブ 沖縄人物伝←小学生にオススメ
●wonder沖縄>組踊の世界>組踊の始祖・玉城朝薫
●美ら島物語 平田大一 歴史探訪シリーズ
●ウィキペディア



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Posted by miyu★kaki at 18:36│Comments(0)登場人物紹介
 
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